2021-01-01から1年間の記事一覧
しろにしてしろのまち。被災と言える程の積雪。城下染真白重し。飼育環境下では、死は、老衰も含め、必ず原因があるのだけれど、外は、勝手、死んでいくの。途絶えたり栄えたりなんやかやしながら季節が終わって行くのだわ。当人は、だから、何も思わずに。…
明なり暗なり。必ずしも対のある線形ではない能を、更に交換する等と、甚だしい。文字列だけが信じらるる形式で、人類の使う文字は未だ完成を見ない。濡れ手は膜を触ることが、経験的に可能だと知られている。
落下落下ふわー。最近では、紙の本が重たく感じらるる。いつか、重力の基準が、ひとの生活の中でも、変化するのだろう。
覚えているのは、ソファに置かれた、タグの付いたままのウサギの縫い包み。いつからか着有されていない物を可哀想と感じるようになった。目に余るように。傷だって好きなのだ。
インターネット上の記事と閲覧デバイスの画面画素数からの表示スタイルシートの分岐。当然、流行・流派・推奨非推奨、あるようで、ブログ等はプレイヤの多さが情報量に直結しており実感出来る所である。完全に自由を求めるなら、プラットフォーム自体を疑う…
部屋の照明を変えたら、点けたら夜でもギンギンである。良いかは別として。一人で読書に使うに勿体ないかもしれない。本の文字を目目を流して更ける秋。
凡そ四角い部屋で暮らしている。広くもなく、物が多く、小ねずみ一匹がおる。時計は四つ。ベッドは一つ。あとは何に使うか分からないのが多多。いくつか趣味の箱が積まれていて、趣味の道具が仕舞われている。芸事の箱、写真機の箱、電気の箱、本の箱。火も…
ツキコが生まれてから、500日と70日くらい。値段を割ることの2円/日となるが、日日の食事に砂に巣材は計算しないようにしている。2000円くらい払うので、もう2年程生きないかなと考える。
小春。暦として「小春日和」と言っていい時期・言わない時期があるそうで、今日は暦の上の言葉としても日和。夜冷え。かちこち。変化の量が大きくって、どうしたものか、着物を出したりして、出したものを眺めて過ごす。我我は、安定した環境を求めます。
生まれてより一度も濡れることなく、菫の色を知らず、曝されず。石を砂に、7日毎に浚われる。目目は重いのに丸い侭。屬は単に、乎は箱に。隅っこで小さく暮らしている。
試験本文。
このようにして、はてなに辿り着いたのだった。
可愛いって字面、「愛いが出来る」と書くの、それはとっても愛らしいなって。車に馬に人に猫に、なんにでも愛を付けて呼ぶ。私の私の物達は、私に愛されているのだろうか。
霧の城の景色は私の目に焼き付いていて、その、差し込む日差しも、影でさえ、美しかった。二人座った椅子は古い石で出来ていて、微睡みそうな心地よい木木を通る風の音に、私は癒やされたの。きっと、私の心の奥底に記憶されているのだろう。最後にあの子は…
生きていて、暮らしている。もう、それだけで離散数理ではないだろうか。
濡れると色が変わる。手が濡れていると、触ったものが濡れているかどうかが分からない。割れた箇所は、金の線になっている。濡れると、色が変わる。
屬乎、ツキコは、カナリアである。鳴かないけれど。籠の鳥は存分に徒花で外連味と言えよう。
略。片隅に思い起こされた、夏だったかの朝早い時間の事。暗い時刻の通信。花の名前をその時に考えて付けるような、多分、優しさ。白くて、赤くなる様は、屹度、熱だった。草々不一。
空は雨降ることなく白い雲のようなものが一面。柔らかい光。唯一の一助の所が隠れており、当時を知ることが出来ない。どうにも流れ・散逸が速い。一握の黒、あるいは白である。泣きながら理解をしている。
「君が狂っているというのなら、ぼくも狂うよ」一定の割合でアンコンディショナルなものは発生するので、責任とか罪とかは、保険の工学のように、全部のひとが負うのだろう。熱の病に追い追いに眠られない。
・Creepから始まる超DownerList裏Creep 椎名林檎Fall EGO-WRAPPIN'曇り空 EGO-WRAPPIN'私生活 東京事変・List A愛妻家の朝食 椎名林檎眩暈 椎名林檎閃光少女 東京事変私生活 東京事変落日 東京事変○地点から 椎名林檎・List Bタバコ EGO-WRAPPIN'GIGOLO EGO-…
注意を引かれるものに度度足を向けるひとを、迷子にさせないように気を遣いながら、手の目の届く所に。もう攫われたりしないように。こわくないように。「この人の手を離さない」ということをずっとずっと手が覚えている。永遠に大事な存在になっている。あ…
渡り、歩いている。慣れた道は短くって、初めての道は延延と感じて。地図では測れない距離が確かにあって。ふらと、思わずに、通る所は、もう、決まっている。
知らんてる間に、全部が偉大なものになっていっていく。一番最後にちょっとでも残ったら、私のにしても良いのだろうか。いつもずっと思い出せない。もう、引き出しに、少しだけ。
道をゆっくり歩いていたり、100馬力のエンジンを回していたり、ちいさいツキコを触っていたり、していると、いやらしい気持ちになる。我慢して我慢して、泣きながら、宛ら祈りを信じたい心持ち。
ツキコは、長くて、1000日程度の長さしか生きない。今で400くらい。きっと、私よりも先にいくのだろう。
前。私達は納得を求め、高額ながらに理解を買う。科学とは信じることである。
私の部屋に、ツキコさんが来て、丁度、一年になる。彼、あとどれくらい生きるのだろう。私は、あとどれくらい。
私は函南友子を知っている。幼稚園が同じだった、小学校と、中学校と、高校と、学び舎を共にした。大学を辞めて故郷に帰ってからも交流は、今も続いている。 私、結城智恵は目を患ってから指を使わない暮らしをしているけれど、友子は対照的に、多芸であった…
あるいは、もっと、長い目。雨の日や、楽しい年、或いは個個人だったり、家だったり、国だったり、種だったり、ツキコさんだったり。本懐を知る迄に、どれだけ。芽吹くには空の明るさが必要だった。