あの子は体が弱かった。数日の旅行のために二週間前から身体を休め、燥げば寝込む。体の弱い子供らしく文学少女だった。小学校の図書室では物足りず、私と隣町まで図書館へ行くことを楽しんでいたと思う。
あの子は主人公性の比較をする以前の段階で死んでしまった。だから、あの子が主役の物語は存在し得ない。あの子は誰とも関係を築かずに早くに死んだと言うこと。唯一あの子と関わった人間が私だったから、こうして思い出されて書かれる文章に登場する。あの子の周りにとって、またあの子にとって、あの子はどんなにも劇的には無かった。物語は悲劇なり喜劇なりでないと成り立たない。私にとってもそうで、あの子は私に殆んど何も影響を与えていなかった、所詮何年も忘れている存在でしかなかった。
命の所在を考えた場合に、全て命は須くに等しく尊いと歌いたくもあるけれど。けれどだ。特別ではない人間などは数多いる事実。特別ではない役の担い手がいないと特別性を持った人もまたいなくなる。可能性なんて云うものは人間ならば誰もが持っていて持っているものだと信じたい心はあっても、全員がそれを発揮すると後述など出来ない情報が世界に溢れよう。
ここで、もしあの子が今も生きていたら、として、何でもない彼に何でもし得る可能性を充てる。
私は私の頭のなかであの子を生かせて、私の架空の友人とした。