雪の温度を確かめる術は有りません。私には。
自らに物事を気付かせる為には気持を身の在る所迄引き寄せな蹴れば為りません。又、常に対しての比較は必要なのはどうしようも無いので、日々由り決めた様式で意識を為て居なければ為りません。何時も身体を冷やし続けてやっと暖かさを知るのですが 、慣れ等も有って零点をまともに維持するのは難儀極まります。
リユウとはホントウに在るのか、とばかり一人考えます。用も無く必要としては要は用無いと成ってリソウスばかり一人散ります。唯、アレ至上とて赦す等処したらば理に由らずが至高の口に一興見えます。昔より結局に叙情だって生きましたのが難解をリリイスしたのでした。
気付けば`愛`は赦されておったと言えないでしょうか。音楽や文学どもに愛の雛形を擦らされるから、自意識(の発生した時)の隣の愛何てキミワルイ伴執りませんか。
愛等在りませんのに。
情を伴う愛的な知覚等は絶対的な意識には成り得ないのだから。敬愛意外には敬愛を持つことは無いのだから。